野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

Eddy Warren@ DIrt Rider FB

2日、「Dirt Rider」のFBに元全日本モトクロスチャンピオンのEddy Warrenの写真が投稿してあった。懐かしい!    「United States rider Eddy Warren competed in Australia between 1987 to 1995, winning both the 250cc and 500cc  Australian Motocross Championships at Acusa Park in South Australia in 1989. That year Warren, from Michigan, was at his peak and took out many other titles across the country, including the King of the Cross in Southern Cross, Western Australia.」とある。  ウキペディアを引くと、「Eddie Warren、(1965年11月26日ー )は、アメリミシガン州ミッドランド出身の二輪モトクロスライダー。1985年AMAスーパークロス東部125(現ライツ)チャンピオン。1992年全日本モトクロス選手権国際A級250(現IA1)チャンピオン」と紹介されている。更にその略歴には「1992年より日本のカワサキファクトリーと契約し全日本モトクロス選手権に参戦し、多くの優勝でチャンピオン獲得。開発力も高く評価されており、カワサキのモトクロッサー「KX」のテストライダーも務める。1994年を最後に日本を離れる」と書いている。
カワサキの全日本モトクロス参戦史の中で、アメリカンライダーを起用した時期が2度ある。'92~'94年のエディ・ウォーレンと'95~'97年のジェフ・マタセビッチだ。この時期はカワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出した時期に相当するが、この経緯は「kawasaki DIRT.CHRONICLES vol09(昔は見れたが、今はどこに隠されているのか、不明、今現在見れない)」に記載されており、その記述通りである。しかるべき技量資格を持つライダーであれば、誰でも参戦可能な全日本選手権に当時モトクロス最強国を誇っていた米国人ライダーをワークスライダーとして走らせる是非については色んな意見があることは知っているが、しかし、これを機に日本人ライダーの技量は確実にUPしたことは事実だし、更に言えば、E・ウォーレンが全日本選手権から引退する最終戦の菅生で、当時のホンダファクトリーの東福寺選手が全日本のライダーを代表してウォーレンに感謝の挨拶をしてくれたことは、今まで前例がなかっただけに、カワサキの選択が正解だったことが確認された。
大昔、全日本モトクロス選手権の会場に行くと、メーカーワークテントの下では、次年度のマシンはどうなるんだろう、どの位の戦闘力があるんだろうかとか、じっと目を凝らしている観客や競争相手の目が幾重も続いていた。ワークステントの下には、帆ロを被せたワークスマシンが数台。レースが近づくとワークスマシンがピットから出てくる。すると、観客もカメラマンもワークスマシンの後をぞろぞろと付いていく。ワークスチームのワークスマシンを、みんなワクワクしてワークステントの前で釘づけになって見ていた。ワークスライダーを、ワークスマシンを憧れの目で見ている子供達も沢山いた。’80年代から’90年代の全日本モトクロス選手権大会、そんな雰囲気が満ちていた。そんな時代も確かにあった。
そんな時代に「カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期に何をしたのか」というと、この時期のカワサキは岡部選手のチャンピオン獲得後から2年間、カワサキは善戦するも全日本チャンピオンを取れず、組織がこのままずるずると勝つ事の意味を忘れてしまう事を恐れていた。と言うのは 竹沢選手がカワサキで250チャンピオンになったのは1976年、次のチャンピオン獲得は125の岡部選手の1985年までの、その間の9年間、カワサキはチャンピオンから遠ざかる。この9年間、勝ちたいと言う思いとは裏腹に思いを集大成して勝ちに繋げる意思はやや貧弱で、加えてこれを別に不思議と思わない環境にあった。その後、岡部選手が4年間チャンピオンを獲得し、組織は勝ち方を覚え、勝つことの意義を確認することができる時期にあったが、岡部選手に続く若手ライダーが育っておらず、このままでは、以前の9年間に戻ること、つまり暗黒の数年を過ごさざるを得ない危機感があった。これは一度でもチャンピオンを維持し続けたチームだけが持つ何とも言い難い焦燥感である。何としても勝ちたい。そしてカワサキの戦う姿勢を明確にすることで多くのファンの人達に昔のようにワクワクする高揚感を待たせるにはと、熟慮した結論は外人ライダーとの契約だった。全日本選手権に外人ライダーを出場させるのは別にカワサキが最初ではないが、カワサキが勝利にこだわる姿勢を明確に打ち出し、圧倒的なプレゼンスを誇った黄金期だったからこそ、カワサキがモトクロス市場のリーディングカンパニーとして行動を起こすべきと判断した。まず第1に勝てる可能性が高い事(勝ちレベルを苦心した)、次に高いレベルでマシン開発ができる事、そして競争させることで日本人選手の技量を向上させることで全日本を活性化させること等である。ただ、懸念された事は勝つためだけに外人ライダーを走らせたと単純に捉えられてしまわないとか言うことだが、結果的にそれは杞憂だった。それは、「ダートスポーツ」FB の『砂煙の追憶』に書いてあるように、当時カワサキのワークスライダーで外人ライダーを抑えて何度も肉薄した走りをした、榎本正則選手が含蓄ある発言をしている。そこには「彼らにしてみれば全日本で走るのは出稼ぎだったかもしれないが、彼らが思っている以上に結果として多くのものを残してくれたはず。受け継がずに過去のものにするのは、あまりにももったいない。育つものも育たない」とあった。
そのEddie Warren(上段左より3人目)も米国Team Greenメンバーの一人だった。  未だ鮮明に覚えているが、全米AMAマチュアナショナルモトクロス選手権の最終戦の開催地、テネシー州Loretta Lynn牧場のコース脇の樹々の間に、ライダー達の駐輪場、広いピットエリアがあった。レースが終了し暇している時、当時のTeam Green選手の一人だった、Eddie Warren の親父に誘われ、バーボンの地酒(自家製と聞いた記憶がある)を頂戴した。夕食時間に近かったので、この冷したバーボン(かなりの度数であった)が旨かったのでかなり飲んだところ、丁度晩飯の頃酔いが回ってきて、たまたま夕食に頼んだ名物のナマズ料理を食べれなかった。一緒にいた、メカの小松君に私の分も喰ってくれと、一人野外のレストランに残してベットに転がり込んだ苦い思い出がある。この時のバーボンで不覚にも酔いつぶれ、しかも楽しみにしていたナマズ料理も喰えなかったので、Eddie Warrenの名前はずっと記憶にあった。その後、全日本戦選手権に外人ライダーを走らせるべく計画した際、推薦選手の中の一人に、その当時結婚しオーストラリアでレースをしていたEddie Warrenの名があったが、どんな選手かは直ぐに思い出せた。
Eddie Warrenの仕事は全日本モトクロス選手権の活性化や日本人選手の技量UPもその目的の一つだが、更にはマシン開発も主活動の一つだった。カワサキはその後、ペリメータフレームを発展させたペリメータのアルミフレームを試作し、’90年代初頭にはアルミフレームのKX250SRを当時のワークスライダーEddie Warrenに乗せて全日本モトクロス選手を戦い、基礎的研究としていた。Eddie Warrenの日本での生活は、カワサキ西明石工場内にあった当時の社宅に奥さんと一緒に住んで、常時、カワサキの一社員として活動してくれた。3年間の日本のカワサキワークスとの契約終了後は奥さんの地元オーストラリアに帰った。再び、Eddie や奥さんの動向を聞いたのはつい2、3年前で、ヤマハの全日本モトクロスワークスライダーとして来日したジェイ・ウィルソン選手にインタビューした著名な二輪ジャーナリスト浦島さんからだ。聞くと、ジェイ・ウィルソンはオーストラリアで活躍中、エディ・ワーレンから日本事情をよく聞いていたそうだ。そのジェイ・ウィルソンも全日本のレースの度にオーストラリアから日本に飛んでくるのではなく、エディ・ワーレンが西明石に常駐したように、日本の静岡に常駐しヤマハの仕事に熱中しているとのことだった。