カワサキ二輪事業の百合草さんについては話すことはいっぱいあるが、すぐに思いだした事をひとつふたつ。百合草さんは、カワサキ単車事業初期頃の単車実験関係の責任者の一人で川航技報に多くの論文を残され、且つカワサキのワークスレースの開発や運営に大きく関与した第一人者。また、KMCでは社長を含め在任時、その後米国オフロード市場を席巻した”TEAM GREEN”創設に携わり、加えてジェットスキー、ATVや多目的車MULEを初めて開発上市された。米国駐在時に、競争が最も熾烈だった米国モトクロスやロードレースでカワサキの大成功を導き、駐在から帰国後、再度レース部門の責任者を担当された百合草さんの一言、「全日本モトクロス選手権で勝て!」を信じて、以降モトクロス開発部隊の見直しに着手、連れて勝てるライダーとの交渉を本格的に開始した。「勝て!」の一声がなかったらのらりくらりの組織に終わった可能性すらある。とにかく、夢を具体化できる人で、どちらかと言えば地味なカワサキの開発陣に対し、その方向性を明確に指示した人だが、未来の形を語れる人が上位に立つ組織は良くなる。また、百合草さんは頭のきれる人で、昼休みに好き者が集まる4研ビル2階での賭けトランプでは常に勝たれるので不思議だった。メンバーは当時の各部門責任者たちばかりで、若輩でペーペーの私は記録兼雑用係だったので覚えているが、その閃きは見事だった。1976年、百合草さんがKMCR&D(MAIN通りにあった昔のR&D)の所長に着任された当時、私もテストで初めての米国出張だったが、大変お世話になった。その年に、ロングビーチでのF1公道レースの前座でイボン・デュハメル等がH2Rで走るというので、種子島さんや百合草さん等と一緒に見に行った記憶がある。

「現在も百合草さんは、新たな国産旅客機開発の必要性の訴え、論文などを執筆:産経ニュース記事から」
以下、産経記事からの転載。
『人気の米ドラマ「白バイ野郎ジョン&パンチ」やハリウッド大作の劇中、日本製バイクが活躍していることをどれほどの人が知っているだろうか?
「カリフォルニア・ハイウェイパトロール(CHP)で採用されていたポリスバイクはカワサキ製。ロス五輪で聖火ランナーを先導したのもロス市警(LAPD)が 採用したカワサキ製です」。こう語るのは元川崎重工常務の百合草三佐雄さん。航空機のエンジニアとして入社後、世界最速の称号“NINJA=ニンジャ”の愛称で 米国のバイク市場を席巻した伝説のバイク「GPZ900R」の開発部長でもある。自ら米国に乗り込みカワサキモータース(KMC)社長も務め、 大型バイク王国・米国にカワサキの名を轟(とどろ)かせ、米国人から“サムライ”と呼ばれた男が挑んだ米開拓秘話を紹介したい。
「ヒーローの愛車はカワサキだった」
米国のCHPに所属する白バイ警官、ジョンとパンチ2人組の活躍を描く米ドラマの傑作「白バイ野郎ジョン&パンチ」(1977~1983年)。 ドラマで2人が乗っていた白バイは当時、CHPで実際に採用されていたKZ1000POLICE(Z1000Aの警察仕様)だった。 同ドラマは日本でも昭和54年から放送された大ヒットシリーズ。当時、番組を見ていた人たちの中で、こう思い込んでいた人は少なくないのではないか。 当然、大型バイク大国“米国の象徴”ともいえるハーレーダビッドソン社製のポリスバイクが使われていたのでは-と。 当時、米国の大型バイク市場は、ハーレーダビッドソンなどの他、日本勢ではホンダのCB750などが勢力を拡大し、カワサキは後発メーカーだった。 61年、カワサキがこの牙城に挑むため、“白羽の矢を立て米国に送り込んだ”日本からの刺客が、新型バイクの研究・開発だけでなく、 グリーンのチームカラーで、世界のロードレース界を席巻した「チームカワサキ」の監督も務めた百合草さんだった。
“カワサキのバイクを知り尽くした男”に「米国市場で戦え!」
百合草さんはA1、Z1、そしてGPZ900R初代“ニンジャ”などカワサキを代表する歴代名バイクの開発に関わってきた生粋のエンジニア。 51~56年にはKMCのR&D(研究開発)所長として米国でバイク開発に携わっていたが、KMC社長としての米国赴任は異例ともいえる指令だったという。 会社は“カワサキのバイクを知り尽くした男”に米国市場での社の命運を託したのだ。「君はバイクの開発責任者なのだから、今度は米国でそのバイクを販売するために市場を開拓してこい、というのが会社からの命令ですよ」と 百合草さんは苦笑しながら当時を振り返った。 百合草さんは技術者として、自ら開発したバイクを持ち込み、米大陸横断という過酷なテストを何度も繰り返した経験も持っていた。 そこで培った知識などを駆使し、米市場開拓の作戦を練り上げていく。
高速道路の充実した米国での大型バイク需要、レース好きの若者を対象にした市販レーサー需要…。 開発者としての視点から米国向けバイクのニーズを分析していた百合草さんは社の期待に応え、米市場にぐいぐいと食い込んでいった。 世界最速の名をほしいままにした“ニンジャ”シリーズは、公道での「ゼロヨン」(約400メートルのタイムを競うレース)などレース好きの米国の若者たちの絶大なる支持を得て販売網を拡大。また、CHPやLAPDに採用されたKZ1000POLICEは、その信頼性から、米国全土か、 カナダの警察用白バイとしても採用されていった。
だが、決して順風満帆だったわけではなかったという。 「このKZ1000POLICEは、まさにカワサキの名を世界に知らしめた傑作バイクですが、後に社の存続を揺るがす事件を引き起こすことになるのです」。 百合草さんが明かした壮絶な“ある事件”については後編で紹介したい。
「売れるバイクを作れ」の社命、航空機開発資金を稼ぐためだった。 百合草さんは昭和10年、東京で生まれ、愛知県で育った。「戦後の日本の産業を復活するためには最先端の技術が求められる航空機作りの技術者が必要だ」との信念から、名古屋大学工学部航空学科に進学する。 大学で航空機設計について学んだ“師匠”は、旧日本陸軍の戦闘機「飛燕」や「屠龍」などの設計者、土井武夫さんだった。 東大工学部航空学科で土井さんと同期だったのが、零戦の設計者として知られる堀越二郎さんだ。 「土井さんからは当時、国産初の旅客機として研究・開発が進められていたYS11の図面を教材に講義を受けました。 航空機開発の草分け的技術者から“失敗の経験の尊さ”も教えられました」と言う。 YS11の設計には土井、堀越両氏が関わっていた。 百合草さんは、「国産の新型航空機を自分の手で飛ばしたい…」という夢を膨らませ、迷わず選んだのが川崎航空機工業。 現在の川崎重工だった。
しかし、当時、日本の航空機産業は米国からの規制を受け衰退。戦闘機などの軍用機はもちろん、旅客機もYS11以降、自由に製造できる環境にはなかった。 入社した百合草さんへの会社の指令は、「新たなバイクを開発しろ」。配属されたのは二輪車部門だった。
「“私は航空機を作るために入社したのです”と上司へ抗議しました」と百合草さんは苦笑しながら当時を振り返る。「すると上司にこう言われたんです」 航空機作りの夢に燃え、熱く訴えてくる若いエンジニアを諭すように上司はこう語りかけた。 「航空機を研究開発するためには数千億円が必要なんだ。今、その資金はこの会社にはない。その莫大な開発費を稼ぐために、君に世界で売れるバイクを開発してほしい」と。 若きエンジニア、百合草さんは、大学で土井さんから受け継いだ航空機エンジン開発のノウハウを、「世界で戦える新型バイクのエンジン開発に注ごう」と強く心に誓った』

「平成6年、百合草三佐雄さん(右)は師匠の土井武夫さんを川重明石工場に招いた(百合草さん提供):産経ニュースから」